居酒屋では「角ハイボール」、カラオケボックスでは「ブラックニッカのハイボール」と、
お店によって使用するウイスキーは様々だったりします。
身近に感じられるウイスキーですが、角ハイボールとブラックニッカの違いを説明できるでしょうか。
ジャパニーズウイスキーと言っても、数百種類のウイスキーがありますし、
メーカーや製造方法もさまざまです。
これらのジャパニーズウイスキーの歴史や製造過程を知れば、ウイスキーの風味の感じ方も変わり、
さらに美味しくお酒を飲めると思います。
なぜなら、ウイスキーは歴史を飲むことが出来るお酒だからです。
ジャパニーズウイスキーの歴史を語るのに欠かせない「2人の人物」
彼らを知る事から始めてみませんか。
ジャパニーズウイスキー(Japanese Whisky)
日本はウイスキーづくりに適した国と言えます。
それは、ウイスキーと水は切っても切れない関係であり、日本は世界でも水資源が豊かな国の一つだからです。
ジャパニーズウイスキーは、スコットランドでウイスキー造りを学んだ竹鶴政孝によって切り開かれました。
近年では、2014年「ISC」酒類コンペティションで、サントリーの「響21年」がウイスキー部門の頂点に輝くなど、
5大ウイスキーの一つとして存在感を示しています。
■主な日本の蒸留所
北海道 余市 ニッカウヰスキー 余市蒸溜所
宮城県 仙台 ニッカウヰスキー 宮城峡蒸溜所
大阪府 山崎 サントリー 山崎蒸溜所
山梨県 北社 サントリー 白州蒸留所
埼玉県 秩父 イチローズモルト 秩父蒸溜所
静岡県 御殿場 キリンディスティラリー 富士御殿場蒸留所
長野県 駒ヶ岳 信州マルス蒸溜所
兵庫県 明石 江井ヶ嶋酒造
竹鶴政孝(ニッカウヰスキー創業者)
写真:ここはマッサンのふるさと|特集|竹原市公式観光サイト ひろしま竹原観光ナビ (takeharakankou.jp)より引用
1894年 広島の造り酒屋で生誕。
大阪高等工業学校を卒業した1916年に大阪の「摂津酒造」へ入社。
仕事ぶりは真面目で優秀だったそうです。
エピソードとして当時「摂津酒造」では「寿屋」の「赤玉ポートワイン」を製造していましたが、
巷で甘味葡萄酒のボトルが殺菌不足のため爆発する事件が相次いで起こりました。
しかし、竹鶴がつくったものは完璧に殺菌処理がされていたので、1本も割れなかったとのこと。
そんな竹鶴に入社して1年がたったころ、スコットランド留学を打診されます。
1918年24歳の竹鶴は単身でスコットランドへ向かいました。
グラスゴー大学でウイスキーの勉強を始めたが座学の限界を感じ、実際に製造現場を見るため、
いくつもの蒸溜所に手紙を投函する日々が続きます。
苦労の末、ロングモーン蒸溜所で実習の許可を得ます。
朝から晩まで必死に学び、人が嫌がる仕事も積極的に引き受けました。
竹鶴の熱意に感心した職人たちは、製造の要である蒸溜器の操縦方法まで教えてくれたとのこと。
それらの実習中に書き残した2冊のノート「竹鶴ノート」はジャパニーズウイスキーの原点となったのです。
そして、スコットランドで妻・リタと運命の出会いを果たします。
竹鶴はスコットランドに留まる覚悟でプロポーズ。
リタの答えは「イエス」であり「ノー」でもあった。
リタはスコットランドではなく、日本で竹鶴の夢を応援することを選んだのでした。
二人は周囲の反対を押し切り結婚。新婚時代を過ごしたキャンベルタウンでは、ヘーゼルバーン蒸溜所で5ヶ月間実習を受けます。
帰国した竹鶴でしたが、「摂津酒造」は第一次世界大戦後の不況によりウイスキー造りをあきらめざるを得ない状態でした。
そんな中、竹鶴に声をかけたのが「寿屋」の創業者・鳥井信治郎です。
竹鶴は1923年に「寿屋」へウイスキー製造技師として入社。
山崎蒸溜所の建設に携わり工場長として尽力します。
1934年 10年契約の期間を終えた竹鶴は独立を決意。
彼が向かったのは北海道・余市。
スコットランドに気候が似ていて、ピート(泥炭)が豊富に採れる理想の土地でした。
余市で長い年月によるウイスキーの探求がはじまります。
「大日本果汁」を設立し最初に作ったのは無添加で最高級品のリンゴジュース。
本物を知らない人々は天然ゆえに時間が経つと白濁することを気味悪がり、返品が相次ぎました。
経営は厳しかったが、リタと周りの支えもあり留学から22年後の1940年、念願のウイスキーが完成します。
「大日本果汁」を略し「日果」を冠した「ニッカウヰスキー」です。
戦後の日本は貧困に苦しんでおり経営は予断を許さない状態でした。
ですが、高度成長期へと時代は変わり人々の生活が豊かになり始めたことが転機となります。
1952年社名を「ニッカウヰスキー」へ変更。
高価でも本物の味を求める人々が増え、余市の原酒も納得できるほど成熟を迎えました。
ニッカの信念・品質主義が花開く時代を迎えます。
1956年「ブラックニッカ」を発表。ニッカブランドは全国的な存在となりました。
1960年 竹鶴は2つ目の蒸溜所「宮城峡蒸留所」に着手します。
彼は常々、異なる風土で生まれた原酒を組み合わせて、より芳醇なウイスキーを生み出したいと考えていました。
1979年85歳で永眠。
晩年まで毎晩自慢のウイスキーを楽しんでいたそうです。
鳥井信治郎(サントリー創業者)
写真:鳥井信治郎 | 山崎観光案内所 (oyamazaki.info)より引用
1879年 大阪の両替商の次男として誕生。
13歳で薬種問屋(薬に加えワインやウイスキーなどの洋酒も扱っていた)へ奉公に出ます。
ここで洋酒の知識や調合を学び「大阪の鼻」といわれる技術を身に着けました。
1899年「鳥井商店」を創業し独立。天性の商才で事業の拡大に成功。
1906年に「寿屋洋酒店」と改名。
寿屋のターニングポイントとなった商品に「赤玉ポートワイン」があります。
日本人の好みを徹底的に研究し、日本人に合う甘くてフルーティーな味にたどり着いた寿屋の大ヒット商品です。
ある日、倉庫でリキュール用のアルコールを詰めたワインの古樽を見つけ、
飲んでみるとウイスキーのように豊な香りと深い味わいに変貌している事に気付きます。
これを機に製造を志すようになりました。
1923年大阪の島本町(京都郊外)に山崎蒸溜所を建設。
45歳からの新たな挑戦でした。
この時、製造技師として携わり、後に工場長として共にウイスキーづくりに踏み出したのが「竹鶴政孝」です。
1929年、初の国産ウイスキー「サントリーウイスキー白札」を発売。
しかし、売れ行きは芳しくありませんでした。
ウイスキー特融のピート(泥炭)の香りが、日本人には「焦げ臭い」と受け取られたからです。
それでも鳥井は諦めませんでした。
さまざまな人の感想や意見を取り入れ、ウイスキーのブレンドを研究。
鳥井は研究家であり営業マンであり、伝道師でした。
山崎蒸溜所から10年以上経った1937年「サントリーウイスキー角瓶」が生まれました。
成熟した原酒とブレンド技術を結集した傑作ウイスキーであり、現在も主力商品として愛されているロングセラー。
ついに日本人の味覚にあったウイスキーにたどり着いたのです。
また、大衆にウイスキーを広げたのは「トリスウイスキー」です。
戦後に粗悪な酒が流通していることに危機感を持った鳥井は「トリスウイスキー」を売り出します。
ウイスキーのブレンドに使う原酒の比率を下げ価格を抑えたこの商品は「うまいやすい」のキャッチコピーでヒットしました。
さらに気軽にウイスキーを飲める社交場として「サントリー・バー」「トリス・バー」が誕生し全国に広がります。
高度経済成長期へ移行し食文化の変化の追い風とともに、日本中でウイスキーブームが巻き起こりました。
ウイスキー市場は1950年代後半から最盛期を迎えます。
歳を重ねた鳥井が挑戦したのは、原点といえる「ブレンダー」への道でした。
本場に負けないウイスキーを日本にという思いと、日本人の味覚を追求した60年。
渾身の傑作「サントリーローヤル」が1960年に誕生します。
これを最後に鳥井は社長とマスターブレンダーの地位を息子の佐治敬三に譲り一千を退きました。
1962年 永眠。享年83歳でした。
現在、ジャパニーズウイスキーはスコッチやアイリッシュと並び、世界5大ウイスキーに数えられるようになりました。
偉大な挑戦を続けた鳥井信治郎の精神は、ウイスキーがあるすべての風景の中に生き続けているのでしょう。
■参考文献
世界文化社 厳選ウイスキー&シングルモルト手帖
ぴあ株式会社 ウイスキーぴあ